三余の書架

冬・夜・雨

【お題】ランダムピックアップ

3,131文字

 

 わたしの首元まで撥ねた油が小さな火傷を作ったこと、それを悟られまいと親指の腹に爪を立てたこと、グラスに結露した水滴が指の傷に滲みたこと。そんなことばかりは鮮明に覚えているが、あの店の場所も名前も、もう思い出せない。

 最後の豚玉を焼きながら、わたしたちは夢日記の話をした。前日に見た夢の話から夢日記の話題に移ったような気はするが、これももうよく覚えていなくて、ただ、そんな話をしたのはその日が初めてだったことと、その豚玉越しの煙に包まれた彼から夢日記をつけているのだと聞いたことだけは、あの頃を再生するための鍵として確かに残っている。

 そう、彼も夢日記をつけていた。当時のわたしはスマホを買ってもらったばかりで、半月ぶりにあった彼にその手のひらサイズの媒体を見せつけながら、最近つけはじめたメモの話をした。

「これが昨日見た夢で、他にもいろいろ。」

「読んでもいい?」

 人に自分の書いた文章を見せることも、夢の内容を伝えることも、深層心理とやらを覗かれているみたいで苦手だったし、今でも苦手だ。それなのにわたしはそれを快く了承して、まだ半月分くらいだからそんなにないけど、と必要のない言い訳をしながらスマホを差し出した。彼はきちんと手を拭いてからそれを受け取った。傷一つ無い画面に骨ばった指を滑らせながら、彼は「俺も夢日記書いてるよ、紙のノートにだけど」と言って、画面に向けていた顔はそのままに、目線だけでちらりとわたしを見つめた。

「見せてよ、私も読みたい」

「そんな、いつも持ち歩いてるわけじゃあないからなあ」

「なんだあ」

 じゃあ何で言ったんだ、とは思わなかった。多分夢日記について言いたいことがあるのだろう、と思った。それは彼に対する信頼でもあったし、もしかしたら期待でもあったのかもしれない。返ってきたスマホは横の座布団に伏せて置いた。帰りに拾い上げるまで、そのまま静かに伏せていた。

「ありがと、面白かった。プロポーズの話とか好きだな」

「ロールケーキ?」

「そうそう」

 毎日僕のために味噌汁を作ってください、ではなく、毎日僕と一緒にロールケーキを食べてください、というプロポーズをして何度も断られている人の夢を気に入ったらしかった。いつもは即座に断られるのに、何人目かの相手からは珍しく絶対にロールケーキでなくては駄目なのかと問われる、という内容だった。夜景が人気のレストランなどではなく、昼下がりのちいさなカフェの、秋口の涼やかな風が髪を揺らすウッドデッキのテラス席で、だ。気を良くして、ロールケーキの中でもチョコレートを使っていないフルーツロールでなくては駄目なのだ、と早口で返したところやはり振られてしまい、チョコロールも好きになろうと決意するところで終わったその夢は、まるで映画を観ているかのような、第三者視点からのものだった。

「恋人が手の中で小鳥になったりするやつは自分視点だったんたけど、でもその恋人は誰だか分からなかった」

「へえ、野球部って書いてあったし少なくとも俺ではないと?」

「や、夢の中だし何があるかわからないよ。野球くらいしてるかも」

 運動が苦手な彼は、万年ベンチの役かな、とけらけらと笑った。ベンチに入れるつもりなんだね、とは言わずにおいてあげた。

 白い小鳥になった恋人をペットボトルに詰め込んで液状にする夢は、中学生の私が主人公だった。いろいろな夢を見る。視点も時期も様々だが、カラー映像だということは共通している。そうして見た夢は目覚めた瞬間からぼろぼろとこぼれ落ち、もともと形などあってないようなものであるのにより一層輪郭が薄れ、最後には消えてしまう。夢日記をつけ始めたのは、それをなんとかして留めておきたいという気持ちからだった。

夢日記楽しいね、夢を見た日は起きた瞬間に書き始めるから目覚めも良くなったし」

 金属のコテだかヘラだかを取り上げながら私がつぶやくと、彼ははたと思い出したように、「そうだ、それなんだけど夢日記はあんまり脳に良くないらしい。忘れるべきことを忘れられないからとかで」とこぼした。

 先ほど言いたかったのはこれだったのだろう。私は「そうなの?」と返して、豚玉をひっくり返した。円からはみ出た生地がじりじりと立てる音を聞きながら、彼の言葉の続きを待った。ここまでは私の仕事で、ソースとマヨネーズ、それから鰹節と青海苔は、彼の仕事だった。

「……でも、夢日記楽しいじゃん?」

「うん、わかるよ」

「だから俺は、何かしらの制約があればいいことにしてる」

 制約。文字数や書く時間、読み返してもいい回数、何でもいいのだと、豚玉を刻みながら言った。彼自身は文字数を制限しているのだとも。「俺はその文字数に収まるだけの情報しか保存しないよ、はいどうぞ」と皿に載せられた豚玉は彼のものよりも少し大きく、山のように盛られた鰹節は狂ったように踊っていた。

「ありがとう」

「ほい、いただきます」

「いただきます」

 ふたりとも食事中は無言になるので、何度目かのデート以降、お互いが食べ終わるまでは話しかけないという暗黙の了解が出来た。居心地の良い沈黙だった。

 制約。きっと彼は、私にも制約を求めていて、それが心配から来るものであろうことは、頭の悪い私にも何となく分かった。強要されているわけではなかったが結局従うことになりそうで、しかしそれに不満はなかった。拘りがあるわけでもなかったし、制約を自分で選べればそれでよかった。掬いきれなかった情報が行間でひっそりと眠っているのも悪くないと思った。

 明太もちチーズでーす、よく混ぜてお召し上がり下さーい。

 ご注文お決まりでしょーかー。

 無言の鉄板の上では、遠くの店員の声もよく響く。彼はあまり音を立てずに食事をするのだと、その時初めて気付いた。私のそれよりも長い睫毛や、深く切りがちな爪、位置が左右でほんの少しだけ違う鎖骨。よく知っているつもりでいたのに、まだ何も知らないような気がして、私は心の底から安心してしまった。

 口の端についたソースを拭き取ると、わたしはもう随分昔から決まっていたことを伝えるかのように、

「時間の制約にするよ」

と目を合わせた。

 先に食べ終わっていた彼は、良いと思う、と頷いてから、自分の手首をするりと撫でた。黒い時計の文字盤が光ってまぶしかった。

 お会計を済ませてから聞いた彼の「最近見た夢」は、音楽室のピアノがもう校歌は弾きたくないと泣くものだった。夜風が制服に染み付いた香ばしい匂いを煽った。

 

 朝の喫茶店には抵抗するものが何もなくてついつい意識を飛ばしてしまいそうになる。珈琲の香りとトーストが焼ける音、それに反応する腹の虫。それらがいつも、わたしを世界の此方側に繋ぎ止めてくれる。レタスとトマトのやけに明るいビタミンカラーが席に届く前に、わたしはこれを書き上げ無くてはならない。

 夢日記の「時間の制約」は、水没したスマホのデータが消えてしまって紙のノートに移行した今でも、もう彼と分かれて数年がたった今でも、やはり有効だ。朝起きて、夢の内容を忘れないうちに近所の喫茶店に行き、いつも通りのモーニングを頼む。それからホットサンドが届くまでの数分。その間だけ、わたしは夢日記のノートと向き合うことが出来る。

 もう従う必要もないのに、それがどう影響していようと人間は慣れているものに親しみを覚え守ろうとするのだから、わたしが余程強い意志を持ってこの習慣を断ち切らない限り、毎日の出納帳から「モーニング」の項目が消えることはないだろう。夢を見た日はそれを記録し、見なかった日はノートをめくって自分を探す。そうしてノートを閉じるまで、鍵を頼りにあの頃を蘇らせて、行間へと沈む。

 

 

 

 

 

-----

 

お粗末さまでした。いろいろしんどかった。素人だから優しくしてください。最近読んだ本の影響がもろに出ています。

ほぼフィクションです。インターネット小説にありがちな大量の改行は入れなかったので読みづらかったらすみません。

お題は以下の3件。ありがとうございます。

元カレ:本人とは無関係です。

小説:恋愛かSFとのことでしたがSFは無理でした。

夢日記:これはちゃんと一つの記事にしても良かった。夢の内容は私が見たものをそのまま使いました。私は文字数制限をしています。Twitterのポスト一つ分なので140文字です。時間の制約は無いので起きたらすぐぽちぽちします。鍵垢で自分しか見られないようにしてはいるのですが、もし見たかったらどこかで声をかけてください。同じく夢日記をつけている友人に見せたら「夢日記を書く時の文体ってみんな似るのかな、おんなじ感じだ」と言われて興味深かったです。夢日記、本当に良くないのかどうかは知りませんが、 読解アヘン に載っていた「浮世メモの夢に、鬼」という短編漫画が面白かったのでそういうことにしました。

 

おわり!

ブログお題箱 ←募集しています